2011年6月アーカイブ

スコープ

プロジェクトベースでの仕事を推進するときに、「スコープ」という言葉をよく聞くようになった。望遠鏡などで遠くを見る器具、という意味合いが一般的だと思うが、仕事の場で使われるときには、「当社の業務のスコープはどこまでですか?」などという形で会話に出てくることが多い。業務の目的と責任範囲、担当範囲、などを指すものと思われる。

 

スコープを考えなくていい仕事は多い。いや、世の中のほとんどの業務はスコープなど決めなくてもうまく回っている。たとえば、ファストフードのアルバイトが初日に先輩に教えられることは、たぶんその先輩がその仕事で最初に教えられたことだろうし、スコープはどこまでか、という疑問をさしはさむ余地はあまりない。大企業でもスコープに迷うことはあまりなく、社内の慣習や規則として、どの部署が何を担当するかということはすでに決まっていることであり、その分野のことはその部署に相談なり、共有なりしておくことが仕事を進めるうえでの基本中の基本であると新人の時に叩き込まれる。そこにあるのは、すでに決められたスコープの上に構築されたルールが長年積み重なり洗練されて、各部門の職掌などの細かい内規となって組織を作り上げている事実である。

 

ところが、外部の人と仕事をやるとなると、そのルールは必ずしも通用しない。もちろん、力関係や従来からの慣習でスコープなどを決めなくてもすでに互いの「あうん」が構築されている場合があって、その場合には、ほとんど自社内と同様に業務を進められる場合も多い。

 

しかし、新しいことを、新しいメンバーでやるときにはそうはいかない。お互いの業務範囲や、タスク、結果責任とそれに伴う成果分配のルールなど、当初決めておくべき事項は数多くあり、それをなあなあで先送りして、あとから火を噴くケースも多々あるだろう。こうした当初のスコープ決めは、質量ともに豊富な経験がものをいうことが多く、座学だけでなんとかなるものではないことが多い。世のプロジェクトマネジメント本などもこうした知識をなるべく体系化しようとするが、プログラミングのような一定定型的なプロジェクトであればかなり統一的な指針が作れるかもしれないが、人間が動くものは多かれ少なかれ、社会学や心理学の要素を加味しておかないと、機械ではないのでなかなかそう物事がうまく運ばない。

 

でも、時に、そのスコープをはみ出して、行動や決断をしなくてはいけないことがある。スコープというのは、それを定めることによって、関係者が自分の行動の指針を持ちやすくなり、ひいては他人の行動を読みやすくする、そうすることで全体の動きの統御がうまくいく、という効果を持っているが、時にスコープからはみ出して行動することが、より高次の価値を実現するために必要ではないか、という場面に遭遇することがある。

 

こうした場合というのは、大抵イレギュラーなことが起こっていて、修羅場みたいな状況のこともある。当初想定していた事態を超えた何かが起こっていて、でも、それを解決するのに最適な解が何かなんて誰にも分からない。そんな時に、自らの信じる価値に照らして、部分最適に陥りそうな全体状況を一気にひっくり返すような決断が必要となる。

 

もちろん、そうした決断が、しょっちゅうなされている、というのはそもそも業務構築か、当人の人間性に問題がある場合が多い。そのような状況を「いやー、うちはベンチャーで朝令暮改があたりまえですから。スピードですよ」というセリフを何の反省もなくはくような経営者にはついて行ってはいけない。

 

だが、それでも、やはりそうした、時に自らのスコープを超えて意思決定をし、行動をおこさなくてはいけないことがあるのも事実だ。それは、リーダーシップとか、TOPの気概とか、そういう問題じゃなく、一人一人の個がもつ矜持としてそういう場面がある。

 

最近の日本では、まさにそうした想定外の出来事に関して、本来の権限を飛び越えて発言したり、行動したりする事例が散見される。今まで、僕自身の考え方として、その人が置かれた状況や構造にしたがって、その人がルールにのっとって起こす行動というのは、もしそれによって、全体最適が損なわれた結果になったとしても、それはそれで仕方ないことだ、と思っていた。あるいは、ある意味で、修羅場においてもぶれないことは、その瞬間は全体最適を損なっているように見えても、長い目で見たら、その人の行動への信頼を増すことになるんじゃないかとも。

 

でも、予測可能性がそれほど高くない(高くなくなってしまった)社会や状況の下で、より高次の価値の実現のために、旧来のルールやしきたりを無視して行動することは、実は理にかなっているんじゃないか、と思うようになった。これは個人的には結構なスタンスの変化ではある。

 

そこで問題になるのが、その「価値」とは一体何か、ということ。再三再四、本コラムでも述べている通り、それは「個人が」決めるものだ。今までのように、周囲や社会が暗に重要視するように要求してくる「価値」は今や、明確に個人の「価値」と反目するケースが増えてしまった。少なくとも僕はそう思う。だから、考えるしかない。今まで安易に信じてきたものや、深く考えてこなかったいろいろな「常識」を疑い、個々の置かれた岐路においてどの選択肢を取るべきかを真剣に考えなくてはならない。その時、自分が見ている射程距離が大きく伸びているはずだと信じる。



Author:渡辺健堂
1971年生 北海道出身 北海道大学法学部卒
卒業後、㈱日本長期信用銀行入行。コーポレートファイナンス業務、マーケット部門でミドルオフィス業務に従事。その後、ベンチャー企業を経て2000年にヘッドハンティング会社の設立に参画。2002年に同社代表取締役社長に就任。投資ファンドにおける投資先経営陣確保の重要性に着目、幅広い業界の経営者候補との強いパイプラインを築く。
2006年㈱エグゼクティブ・ボードの立上げに参画、主に金融の他、事業開発、事業企画などを得意とし、経営者発掘と投資ビジネスの融合を模索している。

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