2011年5月アーカイブ

分からないことを分からないと言えるか。

分からないことを分からないって言えない状況っていうのは、 結局、立場とか、置かれている状況っていうのが、それを邪魔しているということなんだろうと思う(もっと低俗には、分からいことが恥ずかしい、という自分のプライドが邪魔する、ということもあるのかもしれないけど)。分からないことを分からないと言える、ということには、いくつかの段階がある。ちょっとそれを整理してみる。

 

a)あることについて「分からない」、という自分の状態については認識している。

b)「分からない」という自分の状態に関しての詳細(なぜ自分は分からないのか、あるいは、自分だけがわからないのか、あるいは、全部がわからないのか、一部だけか、そして、なぜそうなのか、なんとかしたら自分も、全部、わかりうるのか)も理解している。

c)上記の2つを理解したうえで、自分の判断として、「分からない」と自分以外の人に向けて発言することができるか?

 

で、立場とか、置かれている状況によって「分からない」と言えない、というのは、c)の段階の問題だが、でももしかすると、a)とかb)の問題である可能性はないだろうか、ということを考えてみる。特に最近、いろいろな問題に関するにわか専門家が増えた状況の中で、「この人、どこまで分かっていて発言しているのかな」ということが多くある。

 

もちろん、全てを分かっていなくては発言すべきではない、などと言うつもりはない。ただ、できるだけ、自分の認識のスコープを他者に提示してコミュニケーションしたほうがいいな、とは思っている。現在主流のコミュニケーションツールが、ショートセンテンスを前提としており、それがかなりの部分社会に受け入れられている背景から、そもそもいろいろな前提を事前に共有しながら議論することに向いていないツールがそう思わせている、ということなのかもしれない。

 

話を少しもとに戻して、上記の3つのポイントのうち、一番やっかいなのは、a)の認識の有無のような気がする。「自分はその問題に関して、十分わかっている」という人の発言は力強い。その人が「本当に」十分に理解しているか否かにかかわらず。b)の認識まで十分にある人の話は歯切れが悪い。だから受けがよくないのかもしれない。

 

話が分かりやすいことが重要だ、という風潮もあって、わかりにくい話は話者が稚拙であるか、本質的ではない、という極論すらみられる。今回の原発などの問題も、「要はどういうことですか!?」的な詰問も見られ、なんだか個人的には気持ちが悪い感じがする。ここまで社会が高度化すれば、専門家に任せるしかないことも多々あり、そうした社会で得られた快適さの裏側に説明されていないリスク(=専門家に委任している)があること自体は当然な気がする。

 

その専門家が、委任されたことに関して、専門家として誠実に対処し、現状を包み隠さず説明した際に、委任した側の代表者が「それではわからん、もっとわかるように説明しろ」とかいう展開になって、その代表者にあてて説明をこねくりまわしているうちに歪曲され、結局説明する側も「どうせあの人はこういう結論にしたいのだろうから、そのためにはこういう説明の仕方にしよう」とまたさらに忖度を重ねて、結局専門家も、その代表者も、何が優先順位なのか、どれがmustでどれがwantなのかわからないまま、事実が積みあがっていき、無謬性が加わり、今のような状況になって、それで地震と津波が起こった、ということなのだろう。

 

こうした、「全てを理解することができない、高度に複雑化した社会」を運営する、あるいはその中で生きていく上で、分からないことを分からないと表明する「技術」はとても重要で、そのためには委任する側と委任される側が、上記の3つのうちのa)に関してはもちろん、できれば、b)に関しても共通の地平を持っていた方がいいと思う。委任するものは、委任する事項に関してすべてを理解することをあきらめる。その細部にわたるすべては専門家に任せ、一方でそれによって自分にできた余分な時間を他の自分が競争優位を持っている事柄に使うことで、自分も社会から便益を受け、他人に便益を与える。

 

社会が高度になればなるほどこうした委任事項は増えていく一方だ。委任先が、国なのか、私企業なのかすら分からなくなっている。それを明確にしないまま物事が先に進んでいって、いざ事が起こった時に慌てふためく。薬害エイズだって、焼き肉のユッケだって、僕らはいつもそうした「専門家に委任するリスク」にさらされている。原発・放射線の問題はその影響範囲が地理的に大きくなる可能性が高く、時間的に長期にわたる可能性が高く、それが生命というものへの脅威である可能性が高い、から、他の問題に比べて騒がれているんだろう。

 

ここまで考えてきて、今思うことは「今、この瞬間、我々はどんなリスクを、誰に委任しているんだろうか」ということだ。原発はたまたま顕在化したけど、顕在化する前には、それは存在しないリスクのように扱われていたはずだ。いま、この瞬間も、黙殺されているリスクがあるはず。できれば、個人的にはそれを全部知りたいと思う。それは、委任している「内容」を知るのではなくて、「自分自身が何を理解し得ないか」ということを認識して、自分自身がさらされているリスクを認識することだ。



Author:渡辺健堂
1971年生 北海道出身 北海道大学法学部卒
卒業後、㈱日本長期信用銀行入行。コーポレートファイナンス業務、マーケット部門でミドルオフィス業務に従事。その後、ベンチャー企業を経て2000年にヘッドハンティング会社の設立に参画。2002年に同社代表取締役社長に就任。投資ファンドにおける投資先経営陣確保の重要性に着目、幅広い業界の経営者候補との強いパイプラインを築く。
2006年㈱エグゼクティブ・ボードの立上げに参画、主に金融の他、事業開発、事業企画などを得意とし、経営者発掘と投資ビジネスの融合を模索している。

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