2011年3月アーカイブ

背中を押す

3月11日に東日本大地震があって被災者の方は大変な状況にあると思う。心よりお見舞い申し上げる。地震そのものも衝撃が大きかったが、より大きな衝撃は原発の問題であることは大分明らかになってきた。2つの衝撃がセットで起こったのが、たまたま我々が生きているこの時代のこの日本という場所である、というのは、本当に運命としかいいようがないと思う。

現時点では、より大きな問題は震災そのものではなく、原発になっていて、またそれもトラブルといったような軽い問題ではなく、複数の人為的なミスが重なって起きている大事故のようなものに移行しつつある、ということだ。そして問題が単に日本ローカルで済む問題から、グローバルな変化を起こすものであるという認識が広がりつつある。

他の発電方法に比べて、エネルギー効率がいいという理由から進められてきた原子力発電だが、最近はエコブームという新たな価値観への親和性が高いという触れ込みから全世界的に推進されてきたと思われる。この「効率」という部分が、要は小さいインプットで大きなアウトプットを得られる、という意味で「レバレッジ」に似ているな、と感じるが、レバレッジを大きくかけてバブルという名の大きなリスクを一見わからないように仕組みの中に封じ込めて、それが逆回転を始めたときに大きな被害を及ぼす、そいう意味で「リーマンショック」においてはじけた金融バブルのエネルギー版という感じを受けた。

金融バブルは、あくまで経済活動として不必要に膨らんだバブルをはじけさせるだけの話であったので、実体経済には影響をそれほど及ぼさなかったと言えなくもないけれど、今回の事象はエネルギーという、実体経済の基礎的な部分に大きな損傷を与えてしまったといえるかもしれない。また、副産物としての放射線による健康被害も生み出したとう意味で、単なる経済事象のバブル崩壊であるリーマンショックとは大きく異なるが、高レバレッジが気づかないうちにバブルを生み、それがはじけることでより大きな被害を及ぼす、という意味で類似性を感じた。

さらに、発生した災害が地震を契機として、津波、電力、放射能、と多数のトラブルにつながったのも特徴的だ。電力だけであれば、カリフォルニアの大停電が有名かもしれない。地震だけで言えば、阪神大震災がある。原発でいえばチェルノブイリだ。もしかすると、これから国家財政破たんという新たなトラブルが追加されるかもしれない。これらが絡み合って同時に起こっているから厄介だ。だから、それぞれの解決方法を歴史に学ぶことはできても、現実の目の前にある事象を一挙に解決する方法が見つけることは難しい。

生命の危機と、技術・知識への信頼、国家意識と、家族観、仕事観。それら相互の価値観の優先順位を、それほど突き詰めなくてもうまくいっていた時代が長く続いた。もともと、科学技術の発展と、人間を含む生態系の安定とのバランスは、技術発展が進んだ18世紀くらいから大きな社会的テーマであった。しかし、1960年以降の資本主義の発展と成長が技術を通じて明確に人々の生活を向上させていく様を見て、自然を人間が統御することは十分可能だという認識が広まっていたように思う。もちろん、京都議定書などの反動的な動きは一部ではあったにはあったけれども。

話が大きくなりすぎた。でも、今回の一連の出来事を経て、個人的に、上記の価値観の違いを否応なしに突き付けられているような気がする。これを、単なる一時的な事象として捉えるか、それとも中長期にわたる影響だととらえるかの違い、そして、これを単なる物理的現象ととらえるか、精神的現象(ちょっとうまい言葉が見当たらないけど要は心や生き方、姿勢の問題)ととらえるかの違いも大きい。ごく身近な人たちの間でも、本件に関する話をしているとこうしたギャップを感じることは多い。

スティーブジョブスが癌の宣告を受けたとき、毎朝自分に問いかけた「今日これからやることは、本当に自分のやりたいことか?」という問いかけ。あるいは、阪神大震災で人生観を変えさせられた経営者。生命のリスクに本当にさらされたときに、自分は何を考えるのか。本当に大切なのは、なんなのか。こうしたことを「考えなくてもそこそこうまく生活できる仕組み」が社会システムであり、その社会システムをうまく運営するのが為政者の務めだ。そのインフラたる電力システム(個別福島だけの問題ではない)の一部が損なわれ、そのレバレッジの陰に隠れていた生命環境にかかわるリスクが顕在化したのがいまだ(もちろん、そうとらえない人もいることは承知しているし、だからギャップだと思っている)。

いまだに数多くの国が、大なり小なり、原子力の恩恵を受けて、そのインフラを活用して自らの国を運営し、その国民がそれを享受している。だから、世界各国はこれから日本の国で何がどうなるのか、注視している。たぶん、誰もこれから起こることを確信をもって答えることができる人なんていない。後講釈で「あのときこうすればよかったのだ」ということは今までもさんざん聞いているし、これからもさんざん聞くだろう。でも、本当にいまどうすればいいのか、ということを決めて、それを実行できるのは、国という単位ではなく、個人という単位でしかありえないことに、今更ながら気づく。そして、今のこの決断の結果は、「ただちに」は答えが出ない性質のものなのだ。我々はこうした種類の決断に、あまり慣れていない。

 


何を覚えているか?

以前も同じような内容でエントリーを書いたような気がするけど、人によって同じ場面であっても覚えていることって全然違ったりするな、と感じる。個人的な話だけど、僕自身は人と会って話をした時に、覚えているのはその人の印象と、話をした内容は覚えているのだけど、どんな服装だったか、腕時計はつけていたか、髪型はどんなだったか、とか、かなり覚えていない。あった直後に思い出そうとしても、たぶんメモリされていないので、無理だ。

2番目に転職した会社で、ある時社内に不審者が侵入したとかで、警察が来て事情聴取をしたことがあった。その時にどうも僕らのグループが昼飯の帰りにその不審者とすれ違っていることが関係者の証言から明らかになり、それぞれが個別に呼ばれて事情聴取(?)をうけたことがあった。質問は「ビルの入り口に車がとまっていなかったか?」というものだったが、僕は自信満々に「とまっていませんでした!」と答えた。でも、僕以外のメンバーは全員その車のことを覚えていたのだ。

その時、少なからず、自分としてもショックを受けたのだけど、その時に気づいたのが「ああ、自分はそういう人間なんだ」ということ。特に、こうした習慣というか、癖というか、こうしたものってのは、治そうと思ってもかなり難しいのではないか、と思う。というか、これって、そもそも人の認知そのものの特性であって、先天的か後天的かはわからないけど、修正できる代物じゃないような気がする。

視覚情報は人間の五感の中でも特に情報量が多いので、何をその中から選択するのか、ということと、さらに何を記憶するのか、ということが個人差が激しいと思う。また、感覚情報を多く残すタイプの人と、非感覚情報(たとえば、人であればその人の印象とか、あるいは自分のその時に抱いた感情とか)をより多く残すタイプの人もいる気がする。

感覚情報をより多くメモリする人の中には、あるシーンを写真のように残すといった特殊能力の持ち主もいるだろう。五感の中でもたとえば匂いとかって、取捨選択ができないゆえに匂いから喚起されるイメージが強烈なのかもしれない。また、感覚情報をどのように取得し、整理して、記憶するか、ということも、人によって違うだろうから、SFのように他人の体に乗り移った時には、その感覚の違いは想像以上に大きいかもしれない。

感覚ですらそうなんだから、言葉で伝わる意図なんてもっと個人差があるはず。いや、逆に感覚がこれほどたよりないものだから言葉を人間は発明したともいえるか。どちらにしても、独りよがりにならず、自分の感覚にも批判精神をもっていたい、と個人的には思う。



Author:渡辺健堂
1971年生 北海道出身 北海道大学法学部卒
卒業後、㈱日本長期信用銀行入行。コーポレートファイナンス業務、マーケット部門でミドルオフィス業務に従事。その後、ベンチャー企業を経て2000年にヘッドハンティング会社の設立に参画。2002年に同社代表取締役社長に就任。投資ファンドにおける投資先経営陣確保の重要性に着目、幅広い業界の経営者候補との強いパイプラインを築く。
2006年㈱エグゼクティブ・ボードの立上げに参画、主に金融の他、事業開発、事業企画などを得意とし、経営者発掘と投資ビジネスの融合を模索している。

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