2008年6月アーカイブ

信念と損得

先日、ある会社の副社長と会食をさせていただいていた時に、日本における最近の大きな変化の兆しの一つに内部告発者保護の制度がある、という話になった。今までの日本社会は基本的に儒教の精神に則っていて、そのような社会では内部告発者は「村八分」にされる、というのは常識であった。社会の基本的な成り立ちの前提が「目上の者には従え」ということが根本にあり、「ルールがあるなら、その通りにふるまうべきだ」ということは軽視されがちだ、というような話であった。

内部告発制度(公益通報者保護法)が、たんなるお題目ではなく、実行性のある制度になっていることは、この制度の根本思想である「村の掟より社会のルール」という思想が受け入れられたということだ。これは、日本という国の成り立ちの柱が一本取り換えられたことと同じだ、ということである。確かに、制度が出来て以降、偽装だとか改ざんだとかいうニュースを目にする機会は増えた。これを「日本の今まで持っていた品質へのこだわりがなくなってきた、嘆かわしい」と嘆いていたりすることも多いと思うが、問題の本質は違うんじゃないかと思う。

全部が全部そうじゃないだろうが、こういった問題は「もともとあった」のだと思う。以前のそういった問題は公にされることなく闇に葬り去られていたのだろう。結果としてごく一部の人が犠牲になるが、泣き寝入りするしかない。ちなみに、その副社長は海外赴任期間が多く、米国の年金も受け取っているようなのだが、年金の通知のようなものは、米国では当たり前で、かつその中には「20xx年には、現在の年金制度が破たんし受け取れなくなるリスクがあります」と明記されているそうだ。米国礼讃をするのが本稿の目的ではないが、制度の設計というのは、村の論理でやられた場合全体最適など実現できるはずがない、ということは事実だろう。

制度や仕組みで守ってもらっていたとしても、本来自分がなすべきことをなすことは、状況によってはそれほど簡単ではない。以前の日本株式会社のような、村の掟ばりばりの時には、正しいことをやろうとして、自らの立場をリスクにさらして「直訴」した人が沢山いたと思う。でもそういう人は一種の変人であるという社会の了解があったから、その人が犠牲になったとしても、社会全体としてはOKって思っていたんじゃなかろうか?

いま、制度や仕組みをどんどん整備しているのだけれど、どこまでそれらを高めていっても、個人がそうした問題に悩まされ、結果として社会的に制裁を受けるということはなくなるものではない。特に最近は、会社の損得(短期、中期、長期)、経営者の損得、株主の損得、社会の損得、自分の損得、自分の正義感の損得、自分の家族の損得、同僚の損得、など、多様な価値軸が存在していることが認知され、それらがしばしば鋭く対立する。だからこそ、自分なりの「軸」を持つことが、いままで以上
に重要になってきたのだ、と心から思う。

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言葉と世界

大学時代に読んだ本の中に、「エスキモーは、雪を表現する名詞を他の言語体系(たとえば英語)の数百倍持っている。一方、砂漠の民は砂漠の状態を表す形容詞を他の言語体系の数百倍持っている。そして、たいがいのエスキモーは一生砂漠という言葉を知らないし、砂漠の民は同じく雪を知らない。それは、各々相手の世界を知識として知らない、ということを指すのではない。エスキモーにとって砂漠は存在しないのだ。砂漠の民にとって雪がそうであるように」というようなことが書いてあって、これは自分にとって衝撃であった。

知らないのではなく、存在しない。エスキモーが見てる雪は、日本にいる僕らが四季折々に色々なことを感じるように、時期による微妙な違いもあるだろうし、あるいは雪に託す感情もかなり多様なんだろう。そんな彼らにとっての雪と、日本に住む僕らの認識する雪とは、まったく違うものなのだということ。そしてより驚愕したのが、砂漠の民にとって、それは「違う」というような中途半端な感覚ではなく「存在しない」のだ。このことは自分の外界という意味での世界に対する認識を大きく変えさせた。自分の言語によって、存在しないと規定されてしまう事象がありうる・・・。

平均的な個人(大衆と呼んでもいいかもしれない)にとって、100年前の世界よりも現在の世界の方が、より多くのものが「存在」する世界だろう。多くの言葉=情報が、より多くの個人の手に届くようになったから当然だ。経験で獲得する「存在」の数以上に、言葉によって獲得する「存在」が数多くある。現代の世界に生きる個人にとって、「存在」の多くは自らの経験に裏打ちされたものではなく、知りえた言葉=情報が裏打ちするものであるならば、その個人の世界(観)はより仮想的な傾向をもちうる。

加えて、この傾向はインターネットの出現で大きく前進した。とくに携帯電話のような個人と時間的・空間的に異常に密着しているようなコミュニケーションツールによる不特定多数との言葉の交換は、前述のような背景を苗床として大衆の世界認知を大きく変化させたと思う。それまでは、経験を離れたことばによる「存在=世界」の獲得は、知識人や支配層など一部の人間のものであった。それが、大衆のものとなったとき、世界とは、文字通り、言葉によって形作られることになる。

最近の日本の世相に関してどうこういうのは趣味ではないので、本稿の趣旨はそういったところにはない。ただ、この傾向は、一過性のものではなく、本来的・本質的な変化であるように思われる。オルテガの「大衆の反逆」は、「そのことの善し悪しは別として、今日のヨーロッパ社会において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である」と冒頭切りだされている。
大衆の世界認識が、彼らの経験によって獲得したものがほとんどであるなら衆愚政治ですむが、ネット空間などに見られる空疎な言葉によって形作られた世界(観)が、支配権力と結びついていった先にあるのは、どんな世界だろうか?

日本語は、国内での自国語の依存度が高く、また他の国での(日本語の)使用度がかなり低い言語である。そして、日本は世界有数のGDPを誇る経済大国であり、急速に高齢化の進む社会であり、高度で安価な通信技術がコミュニケーションの垣根を低くしている。言葉による世界生成が大衆のものとなって無批判に増殖していくことが、社会をどのように変化させるかという実験場としては最適だ。もう既に、日本語だけでの世界理解だと、「エスキモーにとっての砂漠」「砂漠の民における雪」のようなものを、かなり多く含んでしまっているのではないだろうか?

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Author:渡辺健堂
1971年生 北海道出身 北海道大学法学部卒
卒業後、㈱日本長期信用銀行入行。コーポレートファイナンス業務、マーケット部門でミドルオフィス業務に従事。その後、ベンチャー企業を経て2000年にヘッドハンティング会社の設立に参画。2002年に同社代表取締役社長に就任。投資ファンドにおける投資先経営陣確保の重要性に着目、幅広い業界の経営者候補との強いパイプラインを築く。
2006年㈱エグゼクティブ・ボードの立上げに参画、主に金融の他、事業開発、事業企画などを得意とし、経営者発掘と投資ビジネスの融合を模索している。

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