2008年2月アーカイブ

ネクラとネアカ

思いがけない方向からアタックを受ける、ということがある。
昔買った本で、そのときにはほとんど意味が分からなかったが、10年ほど経って読み返してみたら、その後も何度も読み返すことになった「子どものための哲学対話」がその一つだ。
「読み返すたびに、発見がある。」よく書評とかであるけれども、実体験としてそんなことはほとんどなかった。この本だけが、今こうして書いている間も、読み返せば、また発見があるんだろうと期待させる。いや、その発見というのは、正確な表現ではないかもしれない。
そこを基点として、「同じようなこと」を考えている人、これまで考えてきた人のエッセンスを知る「きっかけ」になるセンテンスに出会える、ということだ。

その本の中でもっとも印象に残っているのは、「ネクラとネアカの違い」の話だ。
穴を掘るという作業をしている二人の人間がいる。仮にAとBと呼ぼう。Aの穴の入り口には、「ここでぼくは世界平和のために穴を掘っています」という看板が大きく出ている。穴を覗き込むと、穴掘りとは思えないくらい小奇麗な格好をして、穴を覗き込む人に「ヘイ!どうだい?君達も僕と一緒に穴を掘らないか?人の役に立つし、楽しいぜ!」と声をかけてくる。

一方、Bは覗き込んでも振り返りもしない。ただ、ひたすら穴を掘る。その表情は、とても楽しそうだ。心の中では「ああ、本当に穴を掘るのは楽しいな。自分は幸せだな」と思っている。さて、どちらがネクラで、どちらがネアカだろうか?
言葉の定義が大切だ。ネアカとは、根=その人の根本的な部分、が明るい=充足している、事を指す。ネクラはその逆だ。もう本書における答えはお分かりだろう。

他にも、いくつかのtipsに出会える。
・人間は本当は誰にも認められなくても、友達なんかいなくても生きていける
・他人に同情してはいけない
・善悪は相対的だ
・重要なのは「生まれのよさ」と「育ちのよさ」だ
などなど。

「世の中には、皆が信じ込まされている『公式の答え』がある。」というのが、本書の通奏低音であり、それに対して常に懐疑の精神を忘れるな、というのが重要なメッセージだ。中には「友達なんか要らない。人間は一人で生きていける唯一の生物なんだ」という過激なメッセージもある。そして、生きる目的は「遊ぶこと」であると断じている。ここでいう「遊ぶ」というのは単純な意味ではなく、それなりに定義されたものではあるが、本質は変わらない。

ほぼ、数ヶ月に一度読み返しているが、毎回発見がある。日々自分が考えていることなど、大昔の先人達がとうの昔にもっと深く広く考えつくしていたのだと思うと、本当にほっとする。そして、やはり自分の考えること・行うことには、ほとんど自己満足以上の意味はないと得心し、安心して無意味なこの人生を送る決意ができる。
そんな自分はつくづくネクラだと思う。

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情熱大陸

テレビはリアルタイムではほとんど観ない。日曜日に家族といるとき、王様のブランチを流しておくくらいか。
先日、たまっていたものを一気に流し観てみた。
ほとんど、削除削除の連続の中、一番個人的視聴率が高いのが情熱大陸。そもそも取り貯めているもののほとんどは、人間を中心とするドキュメンタリーか音楽系。ドキュメンタリーに関しては、もともとメディアにたくさん出ている人の回は飛ばすことが多い。だって、どうしたって、ポジショントークにならざるを得ないと思うし、芸能人ならなおさらマネージャーや事務所の検閲が入るだろうと容易に想像できるから。

ただ、そんな中でも、情熱大陸は比較的「作られた感」の少ない番組だと思っている。30分という中で、ディレクターがどのような切り口で見せてくれるのか?という視点でも卓越したものを感じる。それでもメディア側にいる人からすれば、いろんなバイアスがかかっていると言われるかもしれない。
だが結局のところ、そんなことを言い始めると、自分の根本思想である「世界の理解をする前提である自分の意識、および感覚器官そのものが最も典型的なバイアス機関である」というところまで一気に言ってしまうので、まあ、程度の問題だ、ということなんだろう。

で、先日、久しぶりにテレビを観ながら号泣した。まあ、以前のエントリーでも書いたが、そもそも日経新聞の朝刊で落涙する人間なので、テレビを観て泣いてしまう事自体は大して珍しいことじゃない。だが問題は、この泣いたという事実を人に説明している最中に嗚咽してしまったのだ。さすがにこれには吃驚した。

どの回かというと、将棋棋士の佐藤康光さんのときだ。
彼の将棋界での立ち位置と、その飄々とした風貌の裏にある勝負師の側面、そして不器用なまでの勝負へのこだわりと、人生への達観が淡々と描かれるのだ。最後のシーンで竜王戦の対局を隣室でテレビ越しに見ていた一人が、佐藤圧倒的不利の中で「お、まだ指すのか」との呟きと、画面の中のテレビ越しに映っている佐藤の様子(筆者には悔し涙を堪えて上を向いているようにしか見えなかった)が、あまりにもその飄々とした風貌からかけ離れていたが故に涙が止まらなくなった。

そこに感じたのは、あきらめない姿勢とか、プロの矜持(きょうじ)とか、将棋コンピュータの誤算とかいった、少なくとも筆者にとっては「どうでもいい、手垢の付いた捉え方」ではなく、理由は分からないけれども「そのように生まれてしまった」人間の純粋な感情の表出があったように感じられた。その宿命の瞬間に、私は涙したのだと思う。
「そのようにしかできないという構図」の中で、それでも人間である、ということ。
その構図の中で、有限である時間を費やしているという究極の「徒労」。ここにドラマを感じてしまうんだろうと思う。

ちなみに、古くからの友人にこの話をしたら「まあ、年をとったって言うことだよ」
の一言であった。ごもっとも。

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Author:渡辺健堂
1971年生 北海道出身 北海道大学法学部卒
卒業後、㈱日本長期信用銀行入行。コーポレートファイナンス業務、マーケット部門でミドルオフィス業務に従事。その後、ベンチャー企業を経て2000年にヘッドハンティング会社の設立に参画。2002年に同社代表取締役社長に就任。投資ファンドにおける投資先経営陣確保の重要性に着目、幅広い業界の経営者候補との強いパイプラインを築く。
2006年㈱エグゼクティブ・ボードの立上げに参画、主に金融の他、事業開発、事業企画などを得意とし、経営者発掘と投資ビジネスの融合を模索している。

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